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ピアノ偉大な作曲家(バッハ)後編

13/03/12 17:21 by sada - スタッフのひとり言

今日は後編の一部を紹介してみたいと思います!!:wa-i:

アイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれバッハが9歳の時に母が死去、10歳の時に父が死去し、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだそうです!!1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活しました。

1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職し彼はヴァイオリンを担当したが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなし同年、アルンシュタットの新教会(現在はバッハ教会と呼ばれる)に新しいオルガンが設置された。その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま同教会のオルガニストに採用され、演奏の他に聖歌隊の指導も任されたそうです。。

1705年10月、バッハは4週間の休暇を取り、リューベックへと旅行しアルンシュタットからリューベックまでの約400kmを彼は徒歩で向かったと言われ当地の聖マリア教会のオルガニストを務めるディートリヒ・ブクステフーデの演奏に学び68歳のブクステフーデもバッハの才能を買い、彼の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけたことは驚きです!!聖マリア教会のオルガニストの地位は若いバッハにとって破格だったが、彼はブクステフーデの申し出を辞退しました。マルグレータはバッハより10歳も年上の約30歳であり、2年前にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退したそうです。

バッハがアルンシュタットに戻ったのは1706年1月末で、4週間の休暇に対し3ヶ月以上も留守にしオルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいたが、聖職会議は彼を叱責しました。。。。会議はさらに、演奏時にブクステフーデから受けた影響であろう「耳慣れない」音を出す事や、聖歌隊に対する指導の不備を糾弾したとあります。その後11月にはまた聖職会議に呼ばれ、合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたという事も非難されこの娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラであったとも考えらたそうです。

その頃、すでにバッハの能力は高く評価されていて1706年12月にミュールハウゼンのオルガン奏者ヨハン・ゲオルク・アーレが亡くなり、後任の募集が行われました。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、バッハは応募し合格したそうです:hakusyu:1707年6月に移り住んだバッハは、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに招かれその報酬はアルンシュタット時代とさほど変わらないが、それでも高額でありました。同じ年、マリア・バルバラと結婚し2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になったとありますがお父さんの七光りと言うところでしょうか??

 

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